「まさか、こいつを狩れってぇのかよ、あの呪い師は」
全身傷痕だらけの男は、両手剣を地に突き立てて、崖下に見える巨大な熊を見つめてい
た。
暑い日ざしが、露出した肌に痛い。
崖下にいる熊の全長は少なく見積もっても、4、5メートルはある。
およそ人が剣で相対するべき存在ではなかった。
狩人が何日も息を潜め、たっぷりに毒を塗った矢でしとめるべき相手だった。
「えれぇこと、言ってくれるぜ……どうする……あんなの殺すなら、一撃だ。外せばこち
らが死ぬ」
逃げる、ということはかの男の心中にはなかった。丁度人を相手に戦うのも飽きてきて
いたのも確かなのだ。きつすぎる相手だが、気分転換と考えれば、悪くない相手だ。
「眉間に一撃か……喉を叩くか。胴に振るったところで剣が通じるとは考えられねぇ……
どうする」
思索した。
ありったけの経験と知識を坩堝に流し込み、溶かし、あの熊を倒す方法という鋳型に流
し込む。
形作る。
その形は――
わずかのためらいの後、
「――このまま、いく」
男は、自分に言い聞かせるようにそう呟くやいなや、すぐさま剣を地面から抜いた。
「おおあああぁぁぁっ!」
自らを奮い立たせるために叫びながら、熊の首筋めがけて剣をつきたようと狙いを定め、
崖を飛び降りる。* * *
時間は二日前に巻き戻る。
男――《傷だらけ》エリクは、酒場で酒を呑んでいた。
彼は、昨年冬マン島でのヴィーキングル(略奪行)に参加し、マン島に攻め入ったオー
ランドただ一人の生き残りとして名を馳せた。そのときに彼が殺した数は、両手両足の指
を全て使ってもまだ半分にも満たないだろう。
だが、戦奴としてあちこちの領主に雇われてきた彼は、マン島で上げた手柄のおかげで
失業の憂き目にあっていた。
雇い主にとってはあまりに験が悪く、同時に高値でもあった。
かの男が投じる戦いは、負けることになる、と思い込んでしまっのだ。
ただの一度の敗北だが、マン島での戦いは、あまりに強烈な印象を彼を知る者に与えて
しまった。
おまけに戦奴仲間からは、味方殺しをしたから生き延びたのだ、と陰口を叩かれ、忌避
される始末である。
故に、エリクを雇う領主はおらず、共に戦う仲間は失せ、結果的に酒場で酒を呑む以外
にやることがなくなってしまっていた。
戦場に見放された戦奴はただの奴隷にも劣る。
戦うことしか知らないからだ。
だからその日も、やることがなくただ酒場で酒を呑んでいた。本当に、それ以外にやる
とこがなかった。
そんな時である。
ローブ姿の女性が、ふらり、酒場に現れた。
顔をうかがうことが出来ないようローブを目深に被ったその女性は、迷うことなく彼の
前にきて、開口一番、こう告げたのだ。
「《傷だらけ》エリク。ここから見えるあの山――」
つい、と小窓に見える山を指差し、
「――あの山で一番大きな熊を狩れたなら、貴方には常に相応しい戦場(いくさば)が約
束されるよう、その熊の毛皮に呪いを施してあげましょう。私にはそれだけの力がありま
す」
「はぁ? 何を言ってるんだ? 誰だあんたは」
エリクは、酔いで焦点の定まらない目を使い、なんとか目前の女性を視界にいれると、
酒瓶片手に胡散臭げに言った。ぷぅんと酒臭い息がただよい、女性の鼻に届くが、意に介
することなく、彼の問いに答える。
「呪い師です。《呪い師(セイズコナ)》のローサ」
一瞬にして、酔い混じりのだらしがない表情が消え去った。
さーっと、汐が引くように酔いが醒めていく。酔いが一気に醒めたのも当然だ。
――《呪い師》のローサ。
噂に伝え聞くところによると、彼女は国中を旅しながらルーンの呪いを施しているとい
う。
しかもその呪いたるやアールブヘイムの妖精のごとくに見事で、謀りが多い呪いの世界
で、本当の本物として国内はおろか、周辺国にまでその名は知られていた。
だが、旅の足取りは実に気まぐれで、国中をしらみつぶしに探したとしても、彼女の足
取りをつかむことは出来ない。国王のスヴェン義足王も、彼女を未だに捜し求めていると
いう。
「ローサだと? 嘘じゃないだろうな」
酔いが一気に醒めるほどの衝撃を受けても、エリクは信用していなかった。
殺気すらはらんだその言葉に、目前の女性はローブを捲って素顔を晒し――
「呪い師は自らの名を謀る者を決して許しません。安心なさい。目前の女性は確かに私。
《呪い師》ローサです」
神秘的でありながらも恐ろしさを秘めた金色の瞳を、エリクに向けて答える。
真っ黒な、闇が溶けたような髪の毛は軽く波打ち、長い。肌は雪を欺くほどに白く、唇
は血よりも赤い。
確かに、エリクが噂で聞いた通りの外見を持った女性だった。そして、力強く返す、己
を証明する言葉。
エリクは信用に足る、と判断し、
「いつまでに熊をしとめればいい」
と、尋ねた。
「二日後、答えは出ます」
「判った。謀ったときには、剣がお前を切り裂くぞ」
彼は、きっぱりと宣言すると酒場の主人に預けていた愛用の剣を、まるで奪うかのよう
に手にすると、酒を呑んでいたことなど微塵も感じさせない足取りで酒場を出て行った。* * *
「ああああああああぁぁっ!」
エリクは、叫びながら崖を飛び降り、熊の首に剣をつきたてようと飛び掛る。
瞬間、熊は彼が襲ってくるのを知っていたかのように立ち上がる。
横殴りに屈強な腕を振るい、爪でもって自分に襲ってきたひ弱な人間を迎え撃つ。
「っ!」
言葉にならない叫び。
突きたてようとした剣で、咄嗟に熊の一撃を受け、飛ばされる。
その方向は彼が飛び降りてきた崖。したたかに背中を打ち付け、崩れ落ちる。
「ごほっ! ぐ……」
エリクはむせながらもなんとか着地して、急ぎ熊を視界に入れた。
熊の動きは、人が想像してる以上に速いことを知っているエリクは、剣を横凪に払う。
あくまで熊を威嚇し、自分の体勢を整えるための時間稼ぎだ。当たるはずもない。
そして企ては成功し、熊は一瞬ひるんで間合いを開けたままエリクを睨み四つん這いに
なって、唸った。
――一撃、一撃だ。一撃できめねぇと、こっちが死ぬ。
エリクは、口を狼のように歪めた。久しぶりだった。目前が真っ赤になったような錯覚
と、戦いからもたらされる昂揚感。
戦いだ。彼はどんな戦いだろうと、とにかくそれを望んでいた。
ローサが課した難題であるこの熊退治を、この状況下で愉しんでいたのだ。
呪いがどうとか、ルーンがなんだとかは関係ない。ただ、この一瞬が欲しかったのだ。
「ぬあああああぁぁっ!」
怒声を放ち、突っ込む。
熊は立ち上がり、両手の致死に等しい殴打を放つ。両手でエリクの顔や肩を砕き、抱き
つき、首を噛み砕くつもりなのだ。
エリクは、刹那、目を細め瞬時に身を低くして地面すれすれに飛んだ。
結果熊は目標を見失い、エリクは相手の真下に転がる。
――獲った!
一撃が、熊の股間から背筋を貫いた。* * *
エリクが熊の毛皮を剥いで山から下りてきたのは、エリクが熊を殺してから、さらに一
日たった頃だった。熊の毛皮を剥ぐのは大仕事で、かなりの労力と時間を必要とした。
《呪い師》ローザは、約束通りにその熊の毛皮をなめして――曰く、ここから呪いは始ま
っているのだという――見事な熊の毛皮をエリクに差し出した。
製作の期間は実に半年に及んだが、エリクは出来上がった熊の毛皮の見事さと、噂通り
のルーンに満足し、笑みを浮かべたという。
エリクが、リーフ・ハーコナルソンというロガランドの若い太守の復讐行を手助けする
のは、さらに一年の後のことだ。
彼はその旅で、自らが欲していた本当の戦いを手にするのだが、それはまた別の話であ
る。